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 その夜は不吉な夢を見た。どこまでも透き通っていて、遠く水底の形さえも見える澄んだ水の中。眠るような静かな表情で、黒髪の青年がゆっくりと沈んでいく。
 見知った顔に手を伸ばしても、遠くなるばかりで届きはしない。自分の領域、水の中だというのに、その手は彼を救えない。
 泡で静寂を乱し、もうすぐ触れるというところで、背後から白い手が伸びてくる。現れた女が後ろから青年を抱き、自分から彼を奪う。そのまま、追い付けない速さで女は彼を攫っていった。

−Clear Drop−

 夢見が悪かったせいか、ぼうっとした顔でアズは庭を歩いていた。湖の底から掬ったような青い髪と瞳は、彼に落ち着いた印象を与えている。だが、この時は落ち着きを通り越し、どこか陰鬱さを滲ませていた。
 アズの手を握りながら歩く幼い少女は、しきりに彼の顔を見上げて心配そうに首を傾げる。白銀の長い髪と蒼い瞳の彼女は、アズが仕える主の妹姫で名をユキという。寡黙で言葉数はないに等しいが、ユキは他人の表情に敏感だ。アズの異変を感じ取り、どうしたものかと気にしている。
 そんなユキを真似てか、彼女が握る革紐の先では犬も同じように首を傾げてアズを見ていた。甘い蜂蜜色に染まった犬は名前をセシルといい、ユキの身辺警護を勤める獣人……獣と人の姿を持つ少年だ。
 二人の心配そうな顔を見て、アズは苦笑を零す。
「大丈夫だよ。昨日は良く眠れなくて、少し頭がぼんやりしてるんだ。レイスにも置いていかれたし、そんなに顔色が悪いかな」
 彼の主人はこの夜の国の王子であるレイス・ファーストだ。今日は金鉱の視察に行く予定だったのだが、朝になってアズの顔を見た彼は、ユキの面倒を見るように言い渡してさっさと出掛けてしまった。
 他の従者もいるので、アズがいなくとも視察に支障はないだろう。だが、普段はどんな所にも付き従っているため、この待遇には少なからず落ち込んでいる。付いて行くことができなかった、留守を言い渡されたのは初めてだった。守るべき主人が遠くにいては、余計に落ち着かない。
(嫌だな。胸騒ぎがしてレイスが心配になる)
 アズは王子付きの秘書官であると同時に、王国屈指の魔法使いでもある。それを従えるレイスもまた、王子でありながら王国最強の呼び声もある軍人だった。
 彼は強い。本当ならば守る必要などないくらいだ。だが、奔放な性格や態度は世話の焼ける子供のようで、幼馴染でもあるアズはずっとそばに居座っている。時に守り、時に守られ、二人は大きな信頼を与え合っているのだ。
 ユキの長い髪を撫でてやりながら、何とか不安を散らそうとレイスの活躍を思い出す。ユキは白く細い指を伸ばし、アズにしゃがんでとねだった。それに応えると、彼女は青い髪を撫で、そっと青年の頭を抱いた。
 特別な強さを持たないはずの少女の温もりが、じんわりとアズを癒してくれる。彼が沈んでいく、自分は彼を救えない。そんな悪い夢など、忘れてしまえそうだった。

 視察から戻ったレイスは、付いてきた従者に後始末と国王への報告を押し付け、自分はさっさと部屋へ戻ってきた。レイスが戻ったことをどこで知ったのか、私室の前でしっかりと魔法使いの装いを整えたアズが待っていた。それを見て、レイスは紅の瞳を嬉しそうに細める。
「ただいま」
「お帰りなさいませ。視察は無事に済みましたか」
「アズ、今すぐその敬語やめろ」
 主人をちゃんと王子として扱い、恭しくかしずくアズの頭に手を乗せて、レイスは面白そうに笑った。アズは従者と主人という立場をなかなか譲らないが、レイスは幼馴染の立場と友人らしい受け答えを求める。公の場や他の使用人の前ではアズの言い分を聞き入れているが、今は必要ないという。
 いつものことだと諦めた顔で、アズは「はいはい」と答え扉を開けてやる。上機嫌のレイスが部屋へ入ると、中でユキが銀髪を広げて振り向いた。兄の帰りを待っていた妹は、花が咲くような嬉しそうな顔で駆け寄ってくる。
「ただいまユッキ〜v いい子にしてたか〜v ちゃんとアズのこと見ててくれた?」
 ひょいと小柄な体を抱き上げて、「可愛いリボンしてるなv」「スミレ色のドレスまで着こなすなんて恐ろしい美少女めv」「あんまり可愛いと食べちゃうぞv」などなど、ありとあらゆる賛辞を浴びせる。
 ユキとレイスは血の繋がった兄妹ではない。彼女は、正体を明かせば夜の国にはいられない娘だ。夜の国と対をなし、長く敵対を続けている昼の国、その王家の姫というユキの出生を、二人はひた隠しにしてかくまっている。
 ユキの本来の名はキルという。彼女は民族の違いからくる昼と夜の国の戦争で、夜の国へ攫われてきた。大切な姫を守ろうと彼女の付き人達は力を振るい、夜の国の民が触れられないよう幼い少女を封印した。その封じが解けたところを二人が救ったのだ。
 キルが生きていた時代は遥か昔で、共にあった従者は皆消えてしまった。悲しみに暮れるキルを憐れんだレイスは、強引に王子の特権を使って彼女を夜の国の王家へ引き入れた。そして、自分の妹姫・ユキとして可愛がっている。見た目も温和なアズに比べ子供に好かれにくい男ではあるが、ユキも随分と彼に懐くようになった。
 危ないお兄さんのような風体でユキを抱き締めていると、見かねたアズが「そろそろ下ろしてあげたら?」と声をかけてきた。溶けそうな笑顔で名残惜しそうにユキを下ろす。ユキは兄の溺愛っぷりにも、アズの呆れ顔にも楽しそうに笑顔で応えた。
 メイドと一緒にお茶の準備を整えていたようで、カップやら茶菓子やらを広げた絨毯へ、ユキはレイスの手を引いて誘う。アズが「ありがとう」と言うと、メイドはトレーを持って部屋を出て行った。
「今朝より顔色が良くなったな。ユキが見ててくれたおかげかな」
 三人での、楽しい秘密のお茶会。普段はアズが魔法ですぐお茶を出してしまうが、このところは淹れ方を覚えたユキが自ら淹れている。少々危なっかしい手付きでお湯を入れ、丁寧に赤が注がれる。可愛い妹の淹れたお茶を、それは美味しそうに口へ含み、レイスは幸せな吐息を零す。
「あ〜うめぇv」
「良かったね。……別に体調不良でも何でもなかったんだよ。ただ寝不足だったんだ」
「それにしちゃあ真っ青な顔してたけどな?」
 レイスのからかいをさらりと受け流し、アズは付いて行けなかった金鉱視察の様子を聞く。明日は掘られた金の加工現場を見に行くのだという。今日の空白を埋めて仕事に臨もうというアズの律義さに、レイスは「寝不足じゃなくて過労かもな」と苦笑した。

 軍服と間違われそうな、ポケットや金飾りのある黒服で身を固め、車窓からの景色を見ながら足を組みかえる。艶のある黒髪は肩に着くあたりで陽気に跳ね、自由奔放な彼の性格を形にしたようだ。特別な感情を浮かべていない紅の瞳は、流れていく景色をぼんやりと追っている。
 隣では、分厚い黒のローブを纏った魔法使いが、今日の日程や視察先の情報を男に聞かせている。深い青の髪と瞳から青の魔法使いと呼ばれ、年若いにもかかわらず他の魔法使いからは恐れと尊敬を集めていた。だが、静寂に強さを秘めているはずの彼は今、覇気の抜け落ちた顔をしている。
 レイスはその整った顔を面白くなさそうに歪め、隣で普段通りを装うアズの頭を後ろから叩く。ぺしっという小さな音は、馬車を揺らす車輪の音で散ってしまった。
「どこら辺が大丈夫だって? 今朝、今日はもう大丈夫だから付いて行くって言ってたよな? 全然大丈夫じゃないじゃないか。お前が城で休んでたって視察くらいできるっての。風邪でも引いたんだろ、何で付いてきたんだ」
 不機嫌を通り越し、呆れた風に溜め息を吐く。アズは調子の悪さを隠せていると思っていたのか、慌てて「風邪なんて引いてないよ」と弁解する。だが、普段から白い顔は白さを増して、目の下には薄っすらとくまが浮いている。声にも力が入っていない様子を見ると、レイスでなくとも大丈夫とは思わない。
「アズ、正直に答えろよ。調子悪いだろ。原因に心当たりは?」
 アズは困り顔で目を伏せる。ずっと悪い夢を見て寝不足でと言っているが、レイスは信じていない。いや、悪夢の原因を追及しているのかもしれない。
 しばらく考え込み、魔法使いは静かに語り出す。馬車ががたごというせいで、レイスはいつもよりそばで耳を傾けた。
「本当に寝不足なんだ、最近ずっと同じ夢を見てる。レイスが水に沈んでいって、助けられないおれから、女の人がレイスを攫っていく」
「あら、俺お姫みたい。え、それいつから? その日何かあった?」
「もう十日になる。十日前は……城のパーティーだったな。国王様が御即位されて四十五周年で、レイスは開会の言葉をアドリブでやって王妃様に後から叱られた」
 苦笑するアズに、嫌なことを思い出したレイスがそっぽを向く。アズは曇った顔のまま考えを巡らせ、溜め息と共にぽつりと呟いた。
「これといって何も……」
「そうなぁ……あ、お前あの時、水被ったろ。客の女がこけて、頭からいったの。悪夢で寝不足じゃなくて、やっぱ風邪引いてんじゃないか?」
 指を鳴らして、レイスが嬉しそうに目を輝かせる。アズは唸りながら首を傾げた。
 それは十日前のパーティー、レイスが来客の一人と談笑している時だった。そばを通った若い娘がハンカチを落とし、それを拾ってやろうとしたアズに、別の娘がグラスの水をかけたのだ。
 足首まで隠すロングドレスを踏んだらしく、そのまま倒れた彼女は魔法使いを下敷きにした。レイスやその話し相手だった紳士、娘の連れ合いがアズと娘を引き起こし、ちょっとした騒ぎになってしまった。レイスはあの後すぐ、アズを下がらせ着替えさせたのだが、風邪を引いていたのだろうか。
 だが、思い当たる節に嬉々とした表情だったレイスが、おや? と視線をさ迷わせる。首を傾げていたアズも、何かあったのかと目をぱちくりさせた。
「そういやあの娘、名前聞かなかったな。引き留めるのが可哀想ですぐ放したけど……どこの令嬢だったっけかな」
 眉を寄せて考える。顔の広いレイスが、社交界を思い通りにする王子が、知らない顔。深い湖底から汲んだような青い瞳が、はっとしてレイスを見つめる。
「え、あれ? もっしーかして、あの娘招待客じゃない? アズ、あれ誰だった?」
「てっきり招待客だと思ってた。でも、言われてみれば見ない顔だ。もしかしたらおれ、まずいことになってるか……」
 アズが言い切った時、ふと馬車が止まった。馬が嘶き、御者と数人が宥めている。窓の外を見るが目的地ではなかった。
 怪訝な顔で眉をひそめたアズが、窓から御者にどうしたのかと問いかける。すると、彼は前を指差し「娘が飛び出してきて」と言った。青い瞳が硬い光を帯びる。
 アズはレイスを馬車で待たせようと彼を振り返る。しかし、いつの間にか男は馬車を降り、馬の横にまで進んでいた。
「レイス!」
 慌てて飛び出そうとするが、しっとりと重い声がその動きを止める。
「いい、偽風邪はちょっと大人しくしとけ。お前らも下がっていい」
 声色に感情はないものの、怒りに似たものを感じる。集まる兵士をも下がらせる彼には、何かが分かっているのだろうか。
 アズはレイスを怒らせることを承知で、馬車から飛び出す。「引いたのか」と問うが、揺れがさほどでなかったことから答えは分かりきっていた。
「馬車の前に急に飛び出されては危ないですよ。……おや、見た顔だ。先日はうちの魔法使いがどうも。今日はこんな森の中まで、お散歩でも?」
 馬から降りてきた兵士に遠巻きに囲まれ、馬車の前で若い娘が座り込んでいる。紳士的な、相手を虜にする魅力を持った笑みで、レイスが娘に手を差し出す。彼女の顔は、先日のパーティーで見たのと同じだった。
 アズに水をかけた娘だ。申し訳なさそうな表情を浮かべ、彼女は差し出された手を取る。まるで悪意などない、あの時、水を溢しうろたえていた時と変わらない顔で、娘は男に引き起こされた。
 レイスの瞳にやや困惑が見える。娘を敵か刺客かと疑っていた。彼女が彼らに何か仕掛けようという輩なら、簡単に敵の手を取るはずがない、という予想が外れたのだ。それとも、何か企みがあるのか。
「どうしても、アズ様に謝りたくて……申し訳ありません。私、ファントム・サローシャと申します。先日は王子様の御前での非礼、本当にどのような謝罪の言葉を持っても償いきれません。アズ様におかれましても、私の無作法の為に服を汚してしまい……」
 下を向き、ファントムと名乗った娘はひざまずく。その真摯な振る舞いに、アズは穏やかな表情で駆け寄り答える。
「……いえ、構いません。どうぞ顔を上げて……」
「へぇ、ファントムちゃん、よく俺達がここを通るのが分かったな。行き先は公務だから知れてるだろうが、使う道は警備上伏せられてるんだ。それに手、随分冷たいなぁ。冷え性? 水みたいだ」
 空いていた手でアズを止め、レイスがにんまりと微笑んだ。先ほどの困惑から、何か合点がいったというような悪戯な笑みへ表情が変わる。そして、細く白い彼女の指を前触れなく握り潰した。
「えっ!?」
 しかし、目の前でファントムの指から散ったのは、赤い血ではなかった。透き通る薄水だ。それはすぐに沸騰し、レイスの手の中で消える。
 驚くアズや兵士達が瞬きする間に、レイスは深紅の剣を抜いている。現れた紅い魔法陣から引き抜かれた長剣は、熱い波動でファントムの体を、降ってきた飛沫を蒸発させる。
 白く煙る視界に赤い風。燃え立つ炎が、触れるなと言わんばかりに水蒸気を振り払う。水の奇襲攻撃はレイスの火炎に乗せられ空へ吹き飛ぶ。
 戸惑いながら、嬉々と光る男の視線を追えば、道の脇に広がる森の深くに人影があった。アズが青い瞳を細めて見ると、水人形と同じ顔の娘が、憎々しげに表情を歪めていた。彼女はぱっと身を翻し、深い森へと逃れる。
「囮かっ!」
「ぬるい待ち伏せしやがって……。被りたくない、仕掛けありの水だな。お前はもう触れてるから、その体調不良も訳ありだろ。大人しくここで馬車見とけ。あの小娘ちょっと絞ってくる」
 嬉しそうな顔と裏腹に、怒気の籠った声がアズの足を縫い付ける。人が降りていた馬を奪い、レイスは兵士数人を従えて森へ駆け込む。
 軍人の顔をしている彼を止める者はない。歯向かう奴は自分で首をはねる、それは稀なことではなかった。
 残されたアズはすがるように伸ばした手を、やり場なさげに下げる。森に消える背を追いたいのに、とても追える気がしなかった。

 鼻息荒く駆ける馬が、走り逃げる娘の横に並ぶ。そのまま前へ回り込み、行く手を阻んだ。早駆けが得意な兵士は誇らしげに胸を張り、「そこで大人しくしていろ」と娘を制する。だが、レイスが着く寸前に彼は馬から落ちた。
「嫌よ。もっと逃げたいの」
 ファントムが長い白髪を振り乱し、走らせた指先から水の刃を飛ばしたのだ。細身の女が放てる剣撃ではないが、水魔法を高度に使うとみえる彼女は、細く薄く広げた水を急所に撃ち込んだ。
 鈍く、どさりと音が聞こえた。落ちた仲間に顔をしかめ、レイスが馬のまま女に突っ込む。飛び乗るように上げた前足が、ファントムの掲げた手の前に着く。水とは思えない強度を持って、彼女の魔術はレイスを拒んだ。張った水結界の向こうで、歯を食い縛りながらもファントムは楽しげに言葉を紡ぐ。
「なんて凶暴で粗雑な男なの。こんな奴があのお方の息子だなんて、嘆かわしい。……やはりゲイム様の跡を継ぐのはユキ様だわ」
 言い切ると女は足元に水を集め、馬の足を、振られた紅い剣を避けて水へ沈む。残された水溜りに馬の足が着くが、娘が通り抜けた魔術はすでに閉じていた。眉を寄せたレイスは辺りを窺うように視線をさ迷わせる。しかし、クスクスと笑いながら女は姿を隠してしまった。
(ゲイム……現国王、親父の支持者か。俺とはそりの合わない穏健派が、ユキを担ぎ始めた。まぁ、温厚なユッキを手懐けて女王に据えるのが、奴等には望ましい展開なんだろうな。そのために横暴な俺が邪魔か)
 馬を下り、レイスは倒れた部下に駆け寄った。重症を負った彼を騎乗の者に抱かせ、足手まといはいらないと強気に笑う。そのまま二人をアズの下へ走らせた。彼は女が負傷者を抱えて戦える相手ではないと判断したのだ。
 取り囲むように展開する部下に、敵が水使いであること、手練れであることを確認させ、自分の身は自分で守れよと凄む。そして、威圧的に言い放つ。
「あの女を見付けても殺すなよ。すぐ俺を呼べ、俺が殺る」
 どこか嬉々とした顔と裏腹に、纏うのは鬼気迫る雰囲気。アズを、部下を傷付けられたことが、彼の逆鱗に触れていた。

 一方、御者や数人と置いていかれたアズは、レイスの帰りを待つ他になく、ぼんやりと暗い空など見上げていた。高名な魔法使いの憂鬱な姿を心配する者もいたが、アズは大丈夫と言って御者台の半分を占拠した。
 そんな彼らの元に人影が現れた。前方からゆっくりと歩いてくる人影は、すっぽりとローブを着てフードも被っている。そこから溢れているのは白い巻き毛、長く艶やかな髪から女だと察する。
 御者台に立ち上がり、アズは厳しい顔でローブ姿を見る。すると、相手は近寄る兵士の前で立ち止まった。
「レイス王子付き、アズ様とお見受けします。そのお力を頂戴致したく参りました」
 フードが払われる。現れたのは先に見たファントムと同じ顔だった。先程より大人しく表情の薄い娘が、すっと手を挙げる。アズは虚を疲れたように目を丸くしたが、すぐに杖を掲げ水の結界を張る。しかし、生まれた結界が勝手に崩れ、音もなく散った。
「っ!? な、どうしてっ!?」
 そう叫んだ時、御者を含めその場にいた者達がぽつぽつと膝を折りはじめた。眠るように目を閉じ、倒れていく。
 慌てて隣にいた御者を支える。眉を寄せ視線をやれば、あたりに薄く霧が出ているのが分かった。彼女は姿を見せるより前に、きちんと手を打っていたのだ。
 あまりに鮮やかで隙がない、いいや、普段ならこの霧に気付かないはずがない。自分の方がいつもと違うのだと彼は焦るが、女は容赦なくアズを追い詰める。
 御者を座らせて魔法使いはそこから飛び降りる。そして、唇を噛みながら杖を振った。
「無駄です」
 矢の速さで飛んだ水滴が、手を前にかざした女に阻まれる。薄水色の魔法陣が現れ、水滴を止め、吸い込んだ。
 続けざまに崩された魔術に動揺し、彼は女の接近をあっさりと許してしまう。陽炎のように揺らぎながら、女はアズの目の前に寄った。片手で杖を下ろさせる。
 身動きできず顔を強張らせるアズ。その白い頬に片手を添え、彼女は静かに囁いた。
「アズ様、水は馴染むものですわ。混じり合い、溶け合い、私の水があなたの水を侵す。そして、あなたを取り込み奪う」
 娘は、不吉を纏いアズを制する。水柱が立ち上がり二人を呑んだ。ぼこぼこと泡が乱れる水中で、不思議と呼吸はできている。だが、水を操る自分の力ではなく、彼女の力に生かされているのが分かった。
 泡が弾けるたびに、身の内に秘めた力が消えていく。そう感じた矢先に、娘は手を広げ渦を作った。根こそぎ奪われることを悟ったアズは、抵抗しようと腕を上げるが何も起こせない。
「一体っ何をっ!?」
「私達は水の血統。あなたの稀な高く強い力があれば、それを操りファーストの王子を溺れさせることも夢ではありません。王陛下の後を継ぐのは、聡明で慎ましい姫です」
「……ユキちゃんを担ぐと? さっきの娘はレイスからおれを引き離すためのっ!?」
 吠える青年を、彼女は無表情のまま首を振って否定する。
「ファントムは私の力を剣に戦います。私は彼女に力を与える泉、他者から力を奪う渦。水のようにひたひたと忍び寄り、滴のように振り払うことはできないゴースト」
 急に瞼が重くなった。死を感じるところまで彼女は吸い取ろうというのか。膝が折れそうになると、水が体を抱き浮いたようになる。そのまま、青ざめた顔は下を向き上がらなくなった。
「あなたの力は最強の水。最強の火をあなたで消すのです」
 白髪の娘が水柱をゆらりと泳ぎ上がっていく。弾ける泡に紛れて霞むその様は、海中に人を攫う悪戯な人魚のようだった。

 くすくすと、笑い声だけが時折聞こえる。しかし、姿は見付からない状態で、もう随分森を探し回っている。あまり散ると一人ずつ狩られるからと、全員で探しているため広域の捜索はできていない。相手も逃げやすいのだろう。
 レイスがアズはどうしてるかなと呟く。そばにいた兵士は苦笑して「アズ様はお強いですから。大丈夫ですよ」と返した。怒りが収まったようには見えないが、レイスはくすぶりながらも冷静だ。アズの心配をして、一度戻ろうかと思案している。
 だが、レイスの思考を裂くような声が上がる。見付けた、そこにと兵士が叫び飛び出す。紅い瞳に静かな火が揺れた。
「出たか、ファントム」
 長い白髪に強気な紫色の瞳、こざっぱりとしたロングスカートの娘が木の陰から現れた。桜色の唇は弧をえがき、嬉しそうに笑っている。
「ええ、さよならの時よ」
 兵士に包囲された中、彼女が左手を頭上高くにかざす。すると、霧が現れ人の形になった。濃度を増して白くなり、一人の娘になる。ファントムの手を取って娘が降り立つ。
「美人の双子か。殺るのが勿体ねぇなぁ」
 現れたのはファントムと同じ顔、同じ色の瞳と髪の娘だった。長い白髪の中で、表情の薄い顔がレイスを見ている。ファントムは彼女を抱き締めると耳元に何か囁いた。
 娘達は両の手を繋いで顔を合わせる。二対の目がレイスに向いた。
「ゴースト、可愛い妹。私にアズの力をありがとう」
「ファントム、美しい姉様。この力で彼を殺して」
 青い燐光がゴーストを包む。それは繋いだ手を介してファントムへ移る。青を纏った娘は、踊るように前へ進み出た。
 危険を察した兵士達が前へ飛び出す。レイスが「よせ!」と叫ぶが遅い。一斉に飛びかかる兵士を、ファントムは笑みを浮かべて全て波に攫った。
 巨大な水泡が現れ、兵士が中に囚われる。水は音を立てて弾け、瞬きの内に消えた。もちろん中の人間ごとだ。
「馬鹿が言うこと聞かないで……っ。奴等をどこへやった?」
「深海の淵へ。水圧ですぐに死ぬわ。ああ、なんて素晴らしい力量なの、思ったことが簡単に現実になる」
 冷静を装った声は、裏にある怒りを隠すには足りない。手にした紅い剣は陽炎のように揺らめき、魔力がだだ漏れになっている。怒りに暴れる力が、早く解放してくれと腕や足に絡んでねだっていた。
 抑えているレイスを煽るようにファントムが笑む。嫌そうに顔を歪めて、男は歯を食い縛る。殺す前に、もう一つ聞かねばならないことがあった。
「アズの力って言ったな? 奴はどうした? うちの魔術師は水で死ぬような雑魚じゃないぞ」
 答えるのはゴーストだ。姉の後ろで清楚に立ち、指を組んで静かにレイスを見つめる。
「水は水に溶けるもの。彼は私に呑まれ、持っていた水を私に奪われた。あなたは彼の水で溺れる」
「奪ったのは力だけか」
「水に生きる者ですもの、容赦は最大限に。それに、私達の望みはアズ様の死ではなく、あなたの死です」
 小さく息を吐いて、そうかと返す。ゴーストの答えが真実か否かはまだ分からないが、彼女達の狙いが自分であってアズではないとの言い分は、信じるに足りるようで安心した。それでも、アズは敗北したのだ。
 生真面目な魔術師のことだから、怪我をしていても追ってくるだろうし、不調を言い訳にせず自分を責めているだろうし、首でも吊っていないかと気がかりだ。早く行ってやらなければ、早く二人を倒さねば。何より、可愛い部下を次々傷付けられた怒りがもう収まらない。
「よくも、やってくれたもんだ、この小娘共」
 紅い瞳が深みを増す。言い切った直後、生まれた熱波が二人の娘を吹き飛ばした。レイスの剣から広がる熱は、木に触れると燃え上がり空気を焼いた。
 揺らぐ陽炎の中、炎に黒髪をなぶられながらレイスが剣を構える。まだ、彼は剣を振っていない。使っていない。にもかかわらず気圧される状況に、ファントムはぎゅっと唇を噛む。
 感情が魔力の波として現れるのは珍しくないが、森を焼くほどの火が魔術ではないなんて。左右の細い指を絡め、火照る体を守ろうと水の薄膜を張る。ゴーストも同様に結界を張り、彼女は身軽に樹上へ逃れて行った。
 ゴーストは戦力にはならない。それを察したレイスが剣先をわずかに横へ払う。深紅の炎が、ファントムの足元で爆ぜる。
「くっ! でたらめな馬鹿力ねっ」
「まだ死ぬなよ、ファントム。何人殺した? 『人数分』味わえよ」
 長い指が鳴る。ファントムのそばに立つ木々が、赤い光を纏い爆発、水の膜が一瞬で沸騰する。白い湯気を割って飛び出し、娘は男と距離をとった。
 険しい顔でレイスを睨み付け、彼女は腕を交差した。右は三本、左は二本の指を立てると、一気に腕を振り抜く。
 白髪を撫でるように水の筋が現れた。それは熱気を振り払い、太く成長してファントムの回りにとぐろを巻く。細い牙を剥き出しにして、水竜が男を牽制、主を守るように翼を垂らした。
 普段、アズが外野を黙らせるために作る竜だ。威圧的な大きさと圧倒的な美しさ。アズの魔力が獣の姿を持つなら高貴な竜だろうとレイスが言った日から、アズはこの竜を従えるようになった。
 紅い瞳が、忌々しげに竜を見る。まるで蔑むように顎を少し上げ、ファントムを見下した。いや、彼女に従う竜を見下したのか。
 黒服が揺らぐ。陽炎に紛れ消えた男を、娘は緊張に強張った顔を振り探す。だが、レイスが現れたのは探す必要もない彼女の眼前だった。手を挙げれば触れられる、水竜の翼を隔てたすぐ目の前に立っている。急に視界に黒が現れ、目を上げたら紅瞳と出会った。
 声も出せずに、ファントムは固まったまま立ち尽くす。燃える炎の瞳は、しかし、熱など感じない冷たい視線で娘を見る。見入ってしまうほどに美しい顔立ちの中で、すうっと紅が細くなる。
 何とか飛び退こうと一歩下がった。だが、それがファントムの限界だった。背後に、突如として現れたのは炎の竜だ。業火を撒き散らし、華々しく炎を纏った紅い竜が、娘の退路を塞ぐように長い体を横たえる。
「アズの魔力はでかいよなぁ? だけど、それをお前が使って、俺を沈められるかは分からない」
 表情が薄いなど、いつも笑顔を絶やさないこの男には珍しかった。ファントムとゴーストはそれだけのことをしている、彼の逆鱗に触れることをしてしまった。悟ったのか、ゴーストはか細い声で姉を呼ぶが、燃え盛る炎と木の焼ける音で届かない。
 レイスが剣を持ち上げる。歯を食いしばって、ファントムは両手を掲げた。水竜が左右の翼を重ね合わせ、尾を身に巻いてうずくまる。分厚い水の層に向かって、さして勢いを付けずに剣が振り下ろされた。少し身をよじれば避けられるほど、簡単な太刀筋だ。
 紅は剣身をどっぷり水に浸け止まる。地面と水平に、娘に手を差し出すように伸ばされた剣は、弱点とされる水の中でぼんやりと揺らぐ。
 水中に陽炎。水温が変わり、剣の周りから泡が吹き出す。
(まさかっ! こんなに魔力を込めた水をっ!?)
 攻撃するために奪ってきた力だが、防御にばかり使っている。このままではせっかくの魔力がなくなってしまうかもしれない。そう思うほどに力を注ぎ込んだはずの竜が、苦しげにのたうち沸騰していく。
 蒸気を上げる竜に言葉のない娘へ、レイスは火の地獄を見せ付ける。紅い炎が剣から吹き出し、水竜を内側から食い破る。飛散した水はそのまま蒸発、アズならばもっと上手く操っただろう竜は消えてしまう。
「魔力ってのは精神力に通じる。アズの力はアズが使うから夜の国屈指と言われるんだ。お前程度じゃ俺に傷一つ付けられない」
「まだ……まだよっ!」
 気丈に吠えて、ファントムは体を霧にする。追わないレイスから大きく離れ、指を立てた手を交差、振り抜く。森の一角、彼女達の周辺が木々を巻き込み水没する。海か湖をそのまま呼び出したように、体がふわりと浮く水中に場が変わる。
「水に呑まれて死んでしまえっ!」
 そして、水は渦を巻き男の体を揺さぶる。剣を地面に突き刺して、それを支えにレイスは踏み止まる。口から泡を吐きながら、内心で「馬鹿力はどっちだ」と毒吐いた。
 見ればさすがの火の竜も体を丸め、苦しそうにうずくまっている。纏う炎は消えてしまい、ただの蜥蜴のようだった。しかし、男の強い意思を受けた竜は不利な場でも耐えている。
 主が声を上げたら、火竜は再び燃え盛り水の攻めなど振り払う。ファントムの水竜とレイスの火竜は術者の格の違いをそのまま体現していた。だから、男はこの程度では動じない。
 レイスは泡を少し吐き、鋭い瞳をファントムに向ける。まだまだと彼女は言うが、彼もいまだ屈する気配がなかった。
 右手で剣にしがみつき、左手を地と水平に伸ばす。水中ではまともな音など響かないが、長い指が弾かれた。火竜の鱗が紅く光る。
「美人が流す血とか涙ってのも、そそるもんがあるよな。とりあえず腕はもらった」
 無表情な言葉に甲高い悲鳴が重なる。主の指示に素早く水を泳いだ火竜が、娘の腕に食い付いたのだ。右腕に、ナイフのような牙が突き刺さる。竜は圧倒的な力で骨を噛み砕き、歯の間から零れ繋がる肉や筋まで引き千切ろうと、彼女をくわえたまま首を振り回す。
 痛覚が振り切れたか、その恐怖にか、声を割ってファントムは喚く。海中かと見紛う空間から、幻のように水が消え去った。彼女の意識が、「ここ」から逸れたせいだ。
 ぶちぶちと嫌な音を立てて腕が切れる様を、濡れ髪の下、レイスは冷たい目で見ていた。そして、繋ぎが切れて地に落ちた娘に、彼は何事もなかったかのような顔で近付く。
「姉様っ! 姉様っ!」
 惨劇は止まらない。察したゴーストは悲鳴のような声を上げて木を降りる。だが、気付いた男が振り返り目が合うと、気弱そうな娘はそれだけで動けなくなってしまった。泣きそうな顔で息を乱し、震えながら姉を呼ぶ。
「姉様……っ」
 しかし、姉は答えないまま、レイスもゴーストに構わなくなる。血溜まりを作る娘を、彼はさらに壊し続けた。
 この手は癖が悪いと言って、泥を掻きもがく娘の指を、上から剣を突き立て斬る。地に刺さる音が大きくて、肉や骨を断つ音は聞こえない。だが、ファントムの絶叫が全てを掻き消し、妹を突き動かす。
 恐ろしさに涙を溢し、唇を震わせながら、ゴーストが体を水に変えて姿を消した。振り返らなかったが、察した男は鼻を鳴らして「逃げたって無駄なのに」と溢す。そして、「助けて」と声が混じる荒い息を、不愉快そうに見下ろした。
 今度は手首を落とし、それを切っ先で引っ掛け火竜に投げる。
「火の中で、永遠の後悔をしてこい」
 無表情のまま、肘・肩と関節ごとに刻んでは竜に喰わせる。愛らしくさえあった桜色の唇は、すっかり青ざめ口から泡を吹いている。白い髪を自らの血で染め、両腕を無くした娘はあまりに凄惨な姿を晒していた。それでも彼女は生きている。いいや、男に生かされていた。
 痛覚を残し、レイスはファントムの命を繋いでいる。そして、次はどこがいいか、その前に一度全て治してやろうか。地獄をもう一度繰り返そうかと彼は言う。微笑みは優しげな風で、偽りと残虐さに甘く綻ぶ。
 ファントムは途切れる意識を繋ぐように、「ゴースト」と妹を呼んだ。彼女の声に、かすかな水音が答える。だが、ゴーストの「答え」に男は目を見張り、続けてその目を細めた。
 怒りに狂う寸前の、剃刀の鋭さで現れた娘を睨む。彼女は水を使い作った小刀を片手に持ち、もう片方に人の手首を持っていた。ガチガチと歯を震わせながら、ゴーストは声を絞り出す。
「姉様を、放して下さい。でないと、この人の血を見ることになります」
 すっと立つ彼女の足元には、青い髪に表情を隠しアズが座り込んでいた。片腕を掴まれ、喉元に刃をあてがわれ、力ない様子で好きにされている。魔力を奪われ気を失った彼に抵抗の術はない。それをゴーストは利用した。
 部下への攻撃に激昂したレイスなら、部下を使った脅しで膝を折る。アズへの信頼が厚く、執着が強い彼ならば、アズの命を守るため姉から手を引くはずだ。そう考えたのだろう。しかし、彼女のもくろみは大きく外れる。
「早く、姉様から離れて……」
 ゴーストが言い切る前に、刃が白い首に赤い線を引く。音さえない一瞬の出来事に、ゴーストは自分の死を自覚する間もなく首を落とす。
 流れ出ることを忘れたのか、切り口から血が飛ぶことはなかった。だが、それは単にレイスの怒りが剣を伝い、断面を焼いてしまったに過ぎない。
 骨さえも紙のように軽々と斬り、灼熱を纏う剣は娘の腕も奪う。落ちる腕もナイフも、美しい顔も髪も全て、ぱっと赤に染まり燃え上がる。太刀筋の見えない速さで焼き切られた妹の命に、姉は声もないままただ息を呑んだ。
 倒れるゴーストをわざと遠くへ蹴り飛ばし、男は素早くアズの背に立つ。そして、支えのなくなった彼の体を掬うように、胸に手を伸ばし押さえてやる。そっと後ろに倒すと、レイスの足に寄りかかりながら、アズはぼんやりとした顔で見上げてきた。
「あ……レイス? ……無事か?」
 まるで助けに来た者のようなセリフを、あまりにも頼りなく、弱々しく呟かれ、レイスは表情を崩しはにかんだ。
「人より自分を心配しろって。ファースト様はお前が心配するほど弱くないぞ」
 言いながらアズの状態を見る。目立った怪我はなく、魔力を消耗している以外に特別な害は受けていない。レイスは安堵と苦笑を飲み込み、腰を曲げて上から顔を覗きこんだ。するとアズは「そうだね」とうっすら笑った。
 安心した様子の彼の目に手を被せ、耳元に「お疲れ」と囁いた。アズは魔法にかけられたように、いや、実際に魔法をかけたのだろう、青い瞳を瞼に隠し眠り始める。
 レイスはさらさらと魔法使いの髪を鋤いた。そして、ちゃんと眠ったとみると、穏やかさの戻っていた顔から「笑み」を消した。森の薄闇の中、視線だけを背後にある首なしの死体に向ける。
 深紅の瞳が冷酷な光を満たし、ただゴーストを見る。彼に見られただけで、ロングスカートが突然火を吹いた。
「……ぁ、ゴースト、っ」
 両腕を落とされた痛ましい姿で、それでも可愛かった妹の名を絞り出す。しかし、彼女の必死の呼び掛けに応えたのは暴君だった。
 やはり言葉はない。レイスはまた、冷えた瞳を娘に向けただけだった。声が聞こえたから向いた、程度の動作で彼は人を殺すことができてしまう。ファントムの衣服も爆ぜるように火を吹く。
 もはや抵抗の意思も叫ぶ気力もなくなったのか。血に汚れた美しい顔立ちの中で、大きく目を見開きファントムは赤い地獄を見つめる。
「お前達には永遠の炎をくれてやろう。身を焼かれながら何度でも叫べ。何度でも後悔しろ。俺のものに手を出した報いだ」
 ずっと大人しく控えていた火竜が、炎を背負いのそりと起き上がる。そして、娘に覆い被さった。牙の並ぶ口を開き、表情の凍り付いたファントムをゆっくりと、ゆっくりと喰らう。長い舌を巻き付け、飲み込む。
 ファントムは何度か首を振っていたようだが、悲鳴も苦鳴もなかった。細い体と長い足が竜の口に消えていく様子は、見ていて気分がいいものではない。しかし、レイスはじっと蔑むような目で見つめる。
 闇の森で火の赤に照らされた顔。よく整った王子の顔にあるのは、双子の娘が言った横暴な男の笑顔だった。呑まれていく娘を前に、怒りから満足へ。死をも弄ぶ若い魔王が、機嫌を直し可笑しそうに笑う。
 喉を鳴らした竜がレイスの元に寄り、主の「これも」という視線を追って彼の背に回る。竜はまだ燃えているゴーストだったものも飲み込んで、姿を赤々とした炎に変えると消えていった。
「人魚の悪夢は終わりだ」
 黒服をはたはたと軽く叩く。足元に座り込んだ青年の服も、煤を払うように優しく撫でてやる。ついでに湖底から汲んだような青い髪も撫でて、起きる気配のない様子に御機嫌な笑みを浮かべた。
「俺の魔術は威力ばつぐーんv こりゃ視察はサボるっきゃないな。帰ろ帰ろv」
 小さな掛け声と共にアズを抱き上げ、レイスは馬車や部下を置いてきた方角に向かった。意気揚々とした足取りには、この数時間のことなどなかったかのようだった。

 水面を、見上げている自分がいた。手を伸ばしても、あと少し届かない所に沈んでいる。背中の向こうは暗い海淵が広がり、しばらくしたら呑まれていくのだろうかと、心の隅で思った。
 揺れる水面で歪んでいるが、空は気高い黒と典雅な星々が広がっている。このまま沈みたくなくて、星を掴みたくて、アズは届かない水の檻に手を伸ばす。すると、泡を纏った手が音を立てて水を割った。
 いつの間にか、禍々しさと華やかさを持った紅い瞳が向こうから覗き込んでいて、それは楽しそうに笑って自分を見ている。延ばした手を捕まれて、強く引かれる。
 悪夢で失った人が、何故自分を助けにくるのだろうか。ぼんやりと霞んだ頭に浮かんだ疑問は、弾ける水音と歪む視界に流されてしまった。

 目を覚ますと、空のような蒼が広がっていた。それが、自分の顔を覗き込んでいるユキの瞳だと気付くのに、寝惚けた頭では随分時間がかかった。アズが起きたと喜んだユキは、ぽてぽてと足音を立てて兄の下へ駆けていく。
 自分の部屋にある、自分のベッド。そう広くない部屋だが、秘書官とはいえ使用人が与えられるのには広い部屋に、ほんのりと紅茶の香りが漂っている。
「どうしたユッキ。アズ起きた?」
 聞き慣れた声に、アズは痛む体を無視して飛び起きた。
「レイスっ! 女がっ! 双子だったんだっ。レイスのことを狙ってるっ!」
「え? 何々、俺がモテる話?」
 ユキの小さな手に引かれて、特に何とない顔でレイスが歩いてくる。お茶を飲んでいたのか、窓際のテーブルにはカップとお菓子が並んでいた。
 何かあった? という風に首を傾げられ、ユキにも小首を傾げられ、気の抜けたアズはベッドに崩れ落ちた。今、自分は彼に何を知らせようとしたのだろう。一体、何に焦っていたのだろう。夢の中の出来事でも話そうとしていたのか。
 呆けたようにしばらく黙ると、レイスはベッドの端に腰掛け、ひょいと抱き上げた少女を膝に乗せる。白銀の髪を優しく撫で、満足そうに紅い目を細めると、彼はアズに顔を向けた。
「お前、ホントに風邪引いてんなら休んどけよ。無理して付いてきて、馬車ん中で倒れるとか驚くだろー。俺ってば部下想いな王子様だから途中で引き返しちゃったぞ。あ、午後から中止した金の加工工場の視察行ってくるけど、今度こそアッちゃんは留守番な☆ ユキ〜、またこの駄々っ子のこと見ててくれる?」
 レイスはにこにこと上機嫌で、楽しそうな妹の頬に頬擦りなどしている。何の話をされているのか理解できず、アズは「俺はどうしたんだ?」と、間抜けな顔で首を捻る。
 レイス曰く、風邪で体調の優れなかった魔法使いは、王子の公務に無理をして同行し、移動途中の馬車で高熱に倒れ、丸一日死んだように眠っていた。王子は大事なお抱え魔法使いを気遣い……この不測の事態を悪用し、公務を取り止め城に戻ると、丸一日看病を名目に仕事をサボった。とのこと。
「……いや、嘘だろ」
「嘘じゃないって。そこらの使用人捕まえて聞いてやろうか? 医者もこんなにぐったりしてるアズは見たことないって言ってたぞ」
 何かを忘れている気がする。何かを誤魔化されている気がする。付き合いの長さから、レイスの表情で隠されていることがあるというのは分かった。だが、記憶が曖昧でどうにも数日間のことが思い出せない。本当に、高熱でうなされた後のような気もしてくる。
 座り込んだベッドで眉を寄せ、青い髪をくしゃくしゃと掻き回した。それを陽気に笑って男は立ち上がる。ユキをベッドに座らせアズの見張りを言い付けると、レイスは「お前の代わりは適当なの連れて行くから大丈夫だぞv」と言って部屋を出て行ってしまった。
 置いていかれたアズは、確かに体に倦怠感はあるとどこか納得した様子で、大人しく午後を寝て過ごすことにした。念のため、レイスは何か隠していなかったかと幼い姫に問いかけたが、布団の上にちょこんと座ったユキは、レイスとまったく同じことをアズに教えた。

 部屋から出ると、レイスは自室に寄って身支度を整えた。普段ならアズが何かと世話を焼くが、今日はいないので全て自分でやる。箱入り王子ではないレイスは使用人などいなくとも、恐らく一人で何でもこなすことはできる。ただ、いつもやらないだけだ。
 鼻歌交じりにネクタイを締め、「仕事サボったのに怒られないってのも妙だな」と声に出して笑った。相手のいないはずの独り言に、感情のない声が答えを返した。
「ファントム・サローシャ、ゴースト・サローシャ。ルドムーアって男の差し金らしいですよ」
 部屋の隅、カーテンの影に黒い人影があった。アズの結界が張られている部屋に、一体どう入り込んだのか。黒服に身を包み、使用人でもレイスの部下でもない男が、小さな声で興味なさげに呟く。その姿をちらりとも見ず、鏡に向かってレイスは指で髪を梳き整える。
「珍しく協力的だな。このままその男を放っておくと、俺が折れようが折れまいがユキにも厄介ごとが降りかかる?」
「あんたが簡単に殺れる相手じゃないことくらい、誰にだって分かるでしょ。穏健派はこれで諦めが付いたんでしょうね、やり方を変えてまた手を出しますよ。先に、姫の方を懐柔して、その言葉であんたの舵を取ろうとする」
 ユキの保身が目的かと問われたことに彼は答えない。だが、内容を聞けば彼はユキを案じているようだった。かつては妹の命を狙った男を、兄はゆっくりと振り返る。面白そうに紅瞳を細めた。
 ユキは動物をよく可愛がる。動物というものは、可愛がってくれる相手にはよく懐く。狼になるセシルに続き、彼女は黒豹になる昏守も上手く手懐けている様子だ。元は暗殺者として寄ってきた男が、今やまるで護衛のように、餌もないのに尽くしている。
 昏守がユキに付いている理由を、レイスを含め誰も知らなかった。アズもセシルも彼を今でも敵として見ることが多いが、影のようにひっそりと、何かとユキを気遣い付いて回る昏守を、レイスは便利な護衛と考えている。自分の言うことは大して聞きやしないが、「ユキのため」となると従順にもなるこの駒。
「ユキが気になるなら、手を出される前に手を打てよ。言い寄ろうとする奴は追い払え、触れようとする手は切り捨てろ。裏での手回しで不足と思うなら表に出てこい。必要なら、お前の立場は俺が作ってやる」
 レイスの言葉に、男は小さく息を呑んだ。ユキの名で自分を引きずり出そう、首輪を嵌めようとするレイスに、影の中で黄金の瞳が細くなる。不愉快そうに鼻を鳴らし、昏守はカーテンの影に消えてしまった。それを見送ったレイスは、可笑しそうに声を上げて笑う。
「勧誘失敗。俺の為になる仕事は嫌か、首輪を嫌ったか。まぁいい、放し飼いでもあれは十分うちの戦力だ。……さて、アズの分のお礼しとかないと、なv」
 とりあえず視察だとぼやきながら、レイスは部屋を後にする。そして、アズが病気療養でいない補填として、彼は急遽、普段ほとんど関わりを持たない男を一人呼び寄せた。

 その日、ただ付いて歩くことを命じられた男は、酷く青ざめた顔で荷物持ちの役を演じ、王子が放った「使えない奴」の一言で、その日の内に王都から出されることになった。
 それは事実上の追放。理由は誰から見ても処遇に見合わないものだった。いつにも増して傍若無人な王子の行為だったが、男・ルドムーアは一切の反論を唱えず、擁護も望まず、逃げるように地方へ移ったという。

−終−

2012.4.18(水)


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